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歴史をつなぎ、未来へと歩む 京都の食文化はいかに成熟してきたのか
歴史をつなぎ、未来へと歩む 京都の食文化はいかに成熟してきたのか

歴史をつなぎ、未来へと歩む 京都の食文化はいかに成熟してきたのか

2013年、ユネスコ無形文化遺産に「和食;日本人の伝統的な食文化」が登録されて以来、和食、そして日本人の伝統的な食文化に対する国内外からの注目は年々高まっています。古都・京都で、私たちが世界に誇る日本の食文化のルーツと歴史、そして未来に向けた取り組みを紐解きます。

変化に富む地形・気候と文化の融合により成熟を遂げた、世界に誇る文化遺産

東西・南北にそれぞれ3,000キロメートルずつ長く伸びた日本列島は、海や川、山や平野と変化に富んだ自然環境が特徴です。それゆえに地域によって気候風土が異なり、また、四季の変化がはっきりしていることから、それぞれの地方ならではの食材に恵まれています。同時に海に囲まれた島国であるという条件のおかげで、諸外国から持ち込まれた食文化の影響を巧みに取り込み、自らのものとしてじっくり醸成してきたのも日本の食文化の特徴です。
素材の魅力を際立たせる調理技術だけでなく、器や盛り付け、提供方法などにも独自のスタイルがある和食は、栄養バランスに優れた健康な食文化として、近年世界でも大いに注目を集めるようになりました。
そのような和食を体系づけ、現在までその文化を守り続けてきた場所、それが古都・京都です。京都盆地とその東側にある山科盆地の三方を鞍馬山、貴船山、比叡山、愛宕山といった山々が囲み、鴨川、桂川、宇治川といった清流が流れる京都の街は、夏季は高温多湿、 冬季は雨が少なく気温が低いという独特な地理や気候の特徴があり、京都の人々の食文化や美意識に大きな影響を与えてきました。
京都の料理人たちによって現在まで受け継がれてきた「京料理」の文化は、2013年、京都府により「京料理・会席料理」として府の無形文化財に指定されました。その中で「京料理」は、京都の歴史とともに形成された日本料理の五体系(大饗料理、 本膳料理、 精進料理、 懐石料理、 お番菜)を総合し、出汁を基本とする調理法によって創作される料理と、それを盛り付け、設えの中でもてなす文化として定義されています。平安時代の貴族の社交儀礼の中で生まれた酒宴料理「大饗料理」は、日本料理の中で最初に確立した料理様式といわれており、京都の食文化は長い間、貴族社会の発展に伴い育まれてきました。多くの文化人に愛されてきた京都・花背の料理旅館「美山荘」に生まれた料理研究家の大原千鶴さんは、「公家文化の影響は京都の人間の気質にも残っています。雅やかなこと、ちょっと丁寧なこと、奥ゆかしさの文化です。宮様に献上するもの、お使いいただくものを考えてすべての仕事がなされている。そういう美意識が人々に共有されているのが京都」といいます。
多くの文化人に愛されてきた京都・花背の料理旅館「美山荘」に生まれた料理研究家の大原千鶴さん
大原さんによると、京都の和食に欠かせないものの筆頭に挙げられるのは野菜です。冬は寒く夏は暑い、季節の変化がはっきりした京都は市街地で取れる農産物の多さでも知られ、朝採れた野菜が昼には食卓に上がる環境であり、京都の中心部から海までの距離も遠いため、必然的に野菜中心の料理が発展してきました。同時に保存のきく一汐の海産物や川魚などの料理も京料理の軸であり、現代でもへしこや鯖寿司として人々に親しまれています。また、利尻の昆布と鰹の本枯節でとった出汁も京都の食卓に欠かすことができないもののひとつです。昆布は8世紀の文献に「軍布」として登場する以前より料理に使われていたとされますが、京都で利尻昆布の使用が広がったのは、北前船によって北海道の産物が上方に運ばれるようになった江戸時代中期以降のこと。昆布にも種類がある中で、京都で利尻のものが好まれてきたのは、昆布の味が直接的にはせず、料理の引き立て役として優れているからといわれています。「奥ゆかしさの文化」はこのようなところにも表れているのかもしれません。
料亭の室内風景写真
世界的に和食への興味が高まる中、京都でもカジュアルに和食の世界を楽しめる店が人気を博しています。一方で、建築や庭園、部屋の設えや器なども含めた、総合芸術としての京料理、和食の伝統を承継していくことも重要です。それを体現する最たる場所が料亭です。大原さんは「料亭にあるのは空間すべてを愉しむ文化。ただ料理をいただくだけではなく、建物に使われている石や木、掛軸や御花のことを知っているのと知らないのとではその価値は変わります」と教えてくれました。

五感で愉しみ、季節を感じ、歴史を学ぶ京料理の世界

会席料理
京料理は料理だけではなく、器や盛り付け、配膳方法、食事を愉しむ空間の設えまでも含むおもてなしのスタイル全体を指すものです。その形は、常にその時々の最先端の文化や流行を反映させたものでもあり続けてきました。京都の代表的な料亭のひとつ、岡崎「京料理 六盛」三代目の堀場弘之さんは、京料理の原点を平安時代の王朝料理にあると考え、1980年代末より『年中行事絵巻』や『類聚雑要抄(るいじゅうざつようしょう)』といった資料をもとに研究を続けてきました。
京都の代表的な料亭のひとつ、岡崎「京料理 六盛」三代目の堀場弘之さん
京都の代表的な料亭のひとつ、岡崎「京料理 六盛」の外観
「平安時代の素材は今とほとんど変わりませんが、調理法は切る、焼く、蒸す程度。凝った料理はありません。調味料は『四種器(よぐさもの)』と呼ばれる酢、酒、塩、醤(ひしお)の4つしかなく、これを平たいスプーンのようなものですくってかけて食べていたようです。『匙加減(さじかげん)』という言葉の源流はここにあります」と堀場さんは話します。
温かい料理は今のお吸い物に当たる「羹(あつもの)」(汁物)のみで、「割鮮(かっせん)」と呼ばれた刺身は、当時としては非常な贅沢品でした。また料理は高く盛る「高盛」が基本でしたが、これは四寸のかわらけ(素焼きの土器)に円柱に盛ったものだったそうです。
京都の代表的な料亭のひとつ、岡崎「京料理 六盛」三代目の堀場弘之さん
京料理の文化とその担い手たちは、貴族や武家、僧侶といったその時々の権力者によって保護されてきました。室町時代以降になると、茶の湯の流行とともに器や盛り付けにも京都独特の感性が発揮されるようになり、洗練の度合いを高めていきます。江戸時代に入ると本膳料理を簡略化した「会席料理」は一般化され、宴会や会席で出されるコース形式の料理として定着しました。
料理人が懐石料理を盛り付けをしている場面
古来、京都では食材と日本料理の五法(生、煮る、焼く、蒸す、揚げる)と五味(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)を組み合わせて献立として仕立ててきました。京都には清水焼に代表される「京焼」と呼ばれる素晴らしい器が数多くあり、五色(白、黒、黄、赤、青(緑))を使った彩りの演出にも心を注ぎます。さまざまな要素の絶妙なバランスの先に、繊細で完成度の高い京料理の姿があるのです。
清水焼に代表される「京焼」と呼ばれる素晴らしい器に盛られた料理
料亭の室内風景写真

仏事・茶事・年中行事、もてなしの心が産み育てた京都の菓子文化

京菓子
和食の原点が京都にあるように、和菓子の原点もまた京都にあります。宮中や公家、社寺や茶家などに献上される菓子を京都では「上菓子」といい、京菓子はこれを基本としています。
明治時代から京都・西陣に店を構える和菓子店「御菓子司 塩芳軒」
明治時代から京都・西陣に店を構える和菓子店「御菓子司 塩芳軒」五代目の髙家啓太さん
「京都のお菓子を作ったのは仏教、特に禅宗やと思っています」と話すのは、明治時代から京都・西陣に店を構える和菓子店「御菓子司 塩芳軒」五代目の髙家啓太さん。日本における和菓子の始まりは、遣唐使によって中国から伝わった、米や麦などの粉を練って油で揚げた「唐果物」との説が有力とされています。天台宗や真言宗など密教のお供え物として日本国内で広まりました。鎌倉時代になると、栄西が宋から禅宗とともに持ち帰った茶の文化が普及し、食事と食事の間に軽食をとる「点心(てんじん)」の風習も取り入れられるようになりました。お茶は、もともと禅宗の修行の中で眠気覚ましとされ、点心は中国の饅頭(まんとう)のように、中に餡が入っていないものだったようです。
職人が作業中の風景
京菓子
菓子の材料に砂糖が使われるようになったのは室町時代のこと。当時の書物、素眼の『新札往来』には「砂糖饅頭」、玄恵の『庭訓往来』には「砂糖羊羹」という言葉がそれぞれ登場しています。その後、ポルトガル人によって南蛮文化が持ち込まれると、卵と砂糖を使った菓子は日本でも本格的に作られるようになりました。さらに江戸時代になり鎖国が始まると、海外から来た菓子は日本独自の発展を見せ、今のような和菓子の形になったといわれています。
京菓子の発展においてもうひとつ大きな役割を果たしたのが茶の湯です。千利休や古田織部の時代にはまだ焼栗や麩焼きなどの素朴な茶菓子が使われていましたが、江戸も元禄の頃になると、茶菓子にも銘をつけて楽しむようになりました。元禄期になると尾形乾山が菓子皿や銘々皿を焼くようになり、京菓子が大成。一般市民にまで菓子が広がったのは明治以降のことです。
一方、お供えや客のもてなし、お祝い事や年中行事など、暮らしの中で愛されてきた京菓子にも、饅頭や餅菓子、おはぎ、団子、汁粉、飴、あられなど、さまざまな種類があります。京都では地域により特徴が異なり、得意とする菓子も異なります。花街の祇園ではお茶屋や料亭、南座などの御用を賜り、古くから茶の湯が栄えた北山では茶菓子の伝統を重んじ、職人が集まる西陣では生活に根ざした菓子が好まれるなど、それぞれの地域における需要に応じて発展していったことがその理由だと考えられています。また、京都には小腹を満たすものとして『虫養い(むしやしない)』という言葉がありますが、それにあたる饅頭などは生菓子屋が作り、「御菓子司 塩芳軒」は仏事で使う盛菓子や、お茶請けとして出す茶菓子などを多く作ってきました。菓子の種類に合わせてそれぞれ組合を設立しているのも面白いところです。
京都には御祝儀などをいただいたら一割程度をすぐにお返しをする「おため」という文化があり、新年の挨拶に来られた方にちょっとお返しをするような習慣もあったため、日持ちのするお菓子などを家に置いていたといいます。このような習慣も廃れはじめ、また法事も減ったため、お菓子の需要は減っているそうです。そのような中、若い世代の京菓子の担い手たちは、伝統を守りつつ常に進化し続けるお菓子作りに努めると同時に、京菓子とは切っても切れない関係にあるお茶をプロデュースするなど、お菓子を取り巻く環境そのものを提案する試みにも取り組んでいます。髙家さんは「最近は銘々皿や菓子楊枝が家にない人も多い。そういう方々に向けて、京菓子の世界を紹介していきたいですね」とビジョンを語ってくれました。

料理や菓子そのものだけでなく、食を取り巻く背景に思いを寄せて

1000年以上の長い歴史の中で醸成され、独自の発展を遂げてきた古都・京都の食文化。貴族社会から武家社会へ、そして近代、現代へと続く時代の変化に寄り添いながら、京都は日本の伝統文化の顔としても強い存在感を見せています。多様な背景や視点を持ちながらもこの街を愛し、文化に深い思いを持つ人たちが、内外から「京都の食」を支えることは、これからの日本のあり方や価値の高め方を考える上でも大きな意味を持つのではないでしょうか。
  • 合同会社コンデナスト・ジャパン
  • 山下紫陽(編集者/ライター)
取材協力
大原千鶴/京料理 六盛/御菓子司 塩芳軒
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(2023年10月1日現在)
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