平成8年(1996年)5月16日 NO.5

米国の物価動向

−インフレ再燃のおそれはあるか−

(1) 穀物、原油を始めとした商品市況の上昇、景気減速ペースの下げ止まり感等を背景に、米国の物価上昇懸念が高まっているが、需給ギャップのマイナスが急に解消されるとはみられないため、物価全般へ波及する懸念は小さい。 年内にも利上げとの見方は行き過ぎとみられる。
(2) しかし一方で、労働コスト面での物価上昇圧力はじりじりと高まりつつある。物価安定基調が大きく崩れることはないものの、最良の時は過ぎ、注意が必要といえよう。

はじめに
 
急上昇を示す商品市況
 
米国のGDPギャップ
 
NAIRUを下回る失業率
 
上昇の兆しのみえるユニット・レーバー・コスト
 
構造的にインフレ圧力を抑える要因
 
FRBの役割をめぐる議論
 
おわりに


はじめに
 
 米国の2、3月の雇用統計が大方の予想を上回る高い伸びを示したことに加え、第1四半期の実質GDP成長率が前期比年率2.8%と前期の0.5%から大きく高まったことから、市場では長期金利が急上昇し、 一部ではインフレ加速、年内にも金融引き締めへの転換を予想する声も出始めている。特に4月に入り、穀物、原油を始めとした一次産品市況が急上昇を示し、米国の物価への波及が懸念されている。 一方、3月の最終財生産者物価は前月比0.5%と2カ月ぶりに上昇に転じたが、 食品・エネルギーを除いたコア部分では0.1%と依然として安定基調が続いている。 同月の消費者物価も0.4%、食品・エネルギーを除いたコア部分では0.3%の上昇と、今のところ安定基調に変化はみられない。

 本稿では米国の物価動向をめぐるさまざまな要因を整理し、今後の物価動向をみる一助としたい。

急上昇を示す商品市況
 
@穀物
 とうもろこし、小麦、大豆などの主要な穀物は、世界最大の輸出国である米国の主要生産地の天候不順、昨年の減反および中国を始めとするアジア地域での需要拡大などにより、需給はタイト化している。 米国農務省の世界穀物需給見通し(3月1日発表分)によれば、95/96年度の生産は前年度比4%減少し、16.8億トンとなる一方で、消費は17.5億トンと1%の減少にとどまり、 年度末の穀物在庫は2.3億トンと22%の大幅な減少が予想されている。 こうした状況から、4月以降穀物の価格は急上昇した。この結果、代表的な商品価格指数であり、穀物のウエイトの大きいCRB(Commodity Research Bureau)商品先物指数は88年夏以来の8年ぶりの高値更新となった (第1図)。米国の主要穀物在庫は今年前半については歴史的にみても低水準の状況が続くものとみられ、産地の天候次第で今後さらに波乱も懸念される。

A原油
 欧米での厳冬による需要拡大を反映した北米における在庫の急速な減少などにより、WTI原油先物は4月中旬に急上昇を示し、期近物で一時バーレル当たり25.34ドルまで上昇した。 その後はOPECの増産予想や国連とイラクの交渉の行方をめぐる思惑から、若干軟化を示している。

B工業原材料
 工業原材料中心の商品価格指数であるJOC(Journal of Commerce)指数は、欧州景気の減速傾向を背景に、非鉄金属市況が銅など一部の商品を除き比較的落ちついた動きを示していることから、小幅の動きにとどまっている。

 こうした商品価格の上昇は、品目ごとの特殊な一時的要因によるもので、米国の物価全般へ波及する懸念は小さいとみられる。

 ニューヨーク連銀の調査によれば、CRB指数を始めとするさまざまな商品指数の米国のインフレの先行指標としての重要性は80年代半ば以降大きく低下している。 これは、経済のサービス化に伴い商品の経済全体に占めるウエイトが低下していること、インフレヘッジとしての商品の役割の後退、適切な金融政策運営などによる。

米国のGDPギャップ
 
 米国経済は91年3月を景気の底として、既に拡大6年目を迎えている。 95年年初以降は、94年中に続けられた連邦準備当局(FRB)の利上げ(94年2月から95年2月までにフェデラル・ファンズ・レートの誘導目標は3%から6%にまで引き上げられた)の累積的な効果などから景気拡大ペースは減速を示してきた。 95年第4四半期の実質GDP成長率は前期比年率0.5%となり、95年通年では2.0%と94年の3.5%から大きく鈍化した。 こうした状況のなか7月、12月、2月と3度にわたってフェデラル・ファンズ・レートの誘導目標の引き下げが行われた(現在5.25%)。 96年入り後は消費の堅調持続、在庫調整の進展などにより、景気は持ち直しを示しており、第1四半期の成長率は2.8%にまで高まった。 もっとも昨年第4四半期には財政審議の難航に伴う政府窓口の閉鎖や大手航空機メーカーのストライキなどの特殊要因がGDPを大きく低下させており、第1四半期の高い成長はその反動による部分も大きい。 過去3四半期をならしてみれば、平均2.4%と米国経済の潜在成長率とみなされている水準からかけ離れたものではない。

 米国経済の潜在成長率を2.3%として計算した試算によれば、96年第1四半期現在の実質GDPは依然として潜在GDPを下回っており、当面インフレ加速の懸念は小さい(第2図)。 しかし、現状のデフレギャップは▲0.4%程度にすぎないため、今後、成長が潜在成長率を超えて加速するようであれば、インフレを警戒する必要が出てくる(計算上では年率3.2%成長が今後2四半期続けば、需給ギャップは解消する)。

NAIRUを下回る失業率
 
 米国では、需給の逼迫を判断する基準として設備稼働率では83-84%、失業率は5.5-6.0%がインフレを加速しない水準の目安(NAIRU:Non-Accelerating-Inflation-Rate of Unemployment)とみられている。 もちろんこれらの水準は一定に決められたものではなく、その時々の経済環境やさまざまな要素がこうした水準を規定する。 設備稼働率は3月現在82.5%とこうしたインフレ警戒水準を下回っているが、失業率は4月現在5.4%とNAIRUを下回る水準にあるとみられ、雇用面ではインフレ警戒域にある。

 しかし、こうした雇用情勢のタイト化にもかかわらず、今のところ賃金の上昇は抑えられている。この背景としては、以下のようなことがあげられる。

@組合の組織率低下。
 民間部門の労働者の組合加盟率は83年の16.5%から94年には10.8%まで低下している。こうした労働組合の組織率低下は労働者の交渉力の低下をもたらし、賃金上昇圧力を抑えているとみられる。

A冷戦構造崩壊・企業のグローバルな経営展開に伴う内外の競争の激化。製品の輸入浸透度の高まりによる輸入品との競合。

B企業リストラを背景に依然として払拭されない雇用不安。
 今回の景気回復初期の雇用の伸びは過去と比較し非常に緩慢なもので、「雇用なき景気回復」と呼ばれたほどであった。 特に医療保険料などの雇用者負担の高まりから企業は正規の雇用を増やさず、人材派遣サービスを利用することにより、合理化・効率化を図るケースが増えている。 91年から95年までの間に民間企業部門全体で840万人の雇用拡大があったが、そのうち人材派遣業は90万人(全体の11%)の増加であった。  また、今回の不況期および回復期の特徴として、90年代以降急速に拡大している情報通信関連投資を背景に、ホワイトカラーの雇用調整が進展していることが挙げられ、景気が拡大過程に入った後も、雇用不安は払拭されていない。

 こうした雇用不安をめぐっては、ロバート・ライシュ労働長官の発言でも、財政赤字問題をかかえる政府はダウンサイジングの必要があることから、雇用面で企業が責任を果たすべきという考えが示されている。 同氏は労働者の教育・訓練の充実など雇用面で責任を果たしている企業に対しては税制面での優遇を行おうとの提案を行っており(3月6日付Financial Times紙)、 今年11月に大統領選挙を控え、雇用問題は政治問題化しつつあり、議論を呼んでいる。

C構造的失業の低下。
 元来NAIRUとは景気循環では説明できない構造的失業であり、求職者の希望する職と提供される職場との地域・能力・賃金などの点でのミスマッチからくる摩擦的失業を意味する。 日銀によるUV曲線(unemployment & vacancy rate curve,充足されていない求人の比率と失業率との関係)の検証によれば、90年代には米国のUV曲線は左下方にシフトしており、摩擦的失業者の減少、 すなわち、労働市場の柔軟性が増していることが指摘されている(第4図)。 この理由としては以下のようなことが考えられる。第一には若年人口比率の低下である。一般に若年層ほど、よりよい職を求めての自発的失業や技能不足に起因する摩擦的失業は多い傾向にある。 近年ベビーブーム世代の熟年化に伴い、労働人口に占める若年層の比率が低下していることが摩擦的失業の減少の一因として指摘できる。 第二には、70年代以降急速に拡大した女性の労働市場への参入が一段落し、女性の職場での定着率が上昇してきていることも、摩擦的失業の減少の一因となっているものとみられる。

上昇の兆しのみえるユニット・レーバー・コスト
 
 企業にとっての人件費コストを示すユニット・レーバー・コスト(生産一単位にかかわる労働コスト)の上昇率は、時間当たり報酬(賃金に社会保障関係費などの企業負担分を加えたもの)の上昇率から生産性の上昇率を引いたものに等しい。 言い換えれば、時間当たり報酬の伸びが生産性の伸びの範囲内におさまっていれば、ユニット・レーバー・コストは上昇しない。

 近年の非農業ビジネスセクターのユニット・レーバー・コストの推移をみると、91-94年まで概ね上昇率は低下基調にあったものが、94年末頃を境に上昇に転じている(第5図)。 特に95年後半以降は景気の成熟化に伴い生産性の伸びが低下する一方で、雇用のタイト化を反映し、時間当たり報酬の上昇率も徐々に高まりを示しており、生産性、報酬の双方がユニット・レーバー・コストの上昇率を高める方向に働いている。

 一方、非農業ビジネスセクターのうち製造業部門についてみると、生産性の高い伸びが時間当たり報酬の伸びを上回っており、ユニット・レーバー・コストは依然として前年比マイナスとなっている。

 以上から、製造業の生産物であるモノに関しては人件費からくるコスト圧力は強くない一方で、 サービスについては人件費からのコスト圧力が高まりつつあることが示唆される。 サービス部門の消費者物価の動きは非農業部門のユニット・レーバー・コストと非常に高い相関を示している。 これは、サービス業においては人件費がコストに占める比率が高いことによるものと思われ、人件費の上昇が今後サービス部門の物価上昇圧力になってくる懸念は大きい。 サービス部門は消費者物価の構成項目の6割近くを占めており、消費者物価全体へ与える影響も大きい。

 前述のように雇用情勢がタイトななかでも、企業リストラの動きを背景に雇用不安が払拭されていないため、賃金の伸びは引き続き抑えられていくものとみられるが、 生産性の伸びは今後景気循環的要因から鈍化してくるものとみられ、人件費コストの上昇によるインフレ圧力の高まりが懸念される。

構造的にインフレ圧力を抑える要因
 
 以上に述べてきたように、一次産品価格、景気展開、労働コストなどさまざまな要因が、これまでのような米国の物価の低位安定をおびやかしつつある。 しかしながら一方で、以下のような内外の環境の変化により、物価上昇はある程度抑えられていくとみられる。

@内外の競争激化・輸入品との競合
 米国における製品輸入浸透度 (製品輸入/(国内製造業生産−製品輸出+製品輸入)は86年に11・4%であったものが、94年には15.2%にまで上昇した。 また輸入相手国についてはアジアなどの発展途上国のウエイトが増しており、これらの国からの製品輸入比率も高まりを示している。 低付加価値品については安価な輸入品を利用しようとする傾向は高まっている。もっとも、最近の輸入物価(石油を除く)の動きをみると、ドル安の影響を受け、95年前半はかなり上昇を示している。 昨年後半以降はドル相場の持ち直しにより輸入物価の上昇も止まったものの、今後のドル相場次第では輸入物価の上昇が国内物価上昇圧力となってくる懸念も否定できない点には注意が必要であろう。

A消費者行動の変化
 80年代の消費主導の経済成長を牽引してきたベビーブーム世代が熟年期を迎え、貯蓄世代に移行してきた結果、ディスカウンターの隆盛、プライベートブランドの成長等にみられるように、消費者は価格指向を強めてきている。

B流通業の構造改善
 米国の流通業ではディスカウンターやホールセールクラブに代表されるさまざまな経営形態が生まれ、競争激化のなかで各企業は生産性を高め、物価の安定に寄与している。

C企業の価格設定姿勢の変化
 こうした競争の激化、消費者行動の変化等を背景に、企業の価格設定姿勢にも変化が生じている。 原材料生産者物価と最終財生産者物価の推移をみると、原材料価格の上昇の最終財価格への波及度合いが近年低下している(第6図)。 この両者の相関をとってみると、80年代以降に過去と比較し相関度は大きく低下しており、特に90年代以降については有意な相関関係はみられない。 企業が合理化・効率化を進めることで、原材料価格の上昇の一部を吸収し、最終財価格への転嫁が抑えられてきたことがうかがわれる。

Dインフレ期待の低下
 以上のようなさまざまな要因に加え、昨年には財政赤字削減への期待が高まったこともあり、米国のインフレに対する長期的な期待は大きく低下した。 フィラデルフィア連銀によるエコノミストを対象とした調査によれば、米国の今後10年間の消費者物価上昇率予想は94年第4四半期には3.5%であったものが、95年第4四半期には3.0%に低下している。 こうした長期的なインフレ期待の低下は賃金、製品価格双方の上昇圧力を緩和させることで、物価安定に寄与している。

FRBの役割をめぐる議論
 
 こうしたさまざまな要因がこれまで物価の安定をもたらし、今後も物価上昇にある程度の歯止めをかけることが期待されているわけであるが、インフレへの懸念が払拭されたわけではない。引き続きFRBの適切な金融政策運営が重要である。

 FRBの金融政策運営は1978年完全雇用成長均衡法(ハンフリー・ホーキンス法)等の法律により、物価の安定ばかりでなく、雇用拡大、経済成長、国際収支の均衡等にも配慮しなければならないこととなっている。 このことが、FRBの金融政策の舵取りを困難なものとさせ、経済に悪影響を与えるとの批判があり、95年にはFRBの政策目標を物価安定に限定するという改定案(マック法案)が出され、議論となっている。 法案の骨子は@FRBの金融政策の目標を長期的な物価安定に限定する、A物価安定にむけて具体的な数値目標を設定し、その進捗状況を議会に定期的に報告すること等である。 もとより物価安定およびそれを通じた経済の持続的成長がFRBの最も重要な目標であることは異論のないところであろうが、具体的数値目標の設定をめぐってはFRB内部でも議論が別れている模様である。 法案成立にはさらに議論の必要があり、容易に合意が成立するような状況ではないが、こうした議論を通じてFRBの物価安定機能がさらに増すことが期待される。

おわりに
 
 米国の消費者物価は95年には前年比2.8%の上昇となり、92年以来4年連続で3%以下の水準におさまった。このうち食品・エネルギーを除くコア部分は3.0%となり、90年代以降概ねコア部分が全体の消費者物価上昇率を上回っている。 つまり、この間の消費者物価の安定には食品・エネルギー価格の安定の影響も大きかったといえる(食品・エネルギーは消費者物価全体の22%を占める)。 このため、最近の穀物や原油価格の上昇が物価全般へ波及することが懸念されているわけである。 景気はすでに拡大6年目に入っていることもあり、設備ストックの積みあがり、消費者の債務負担の高まりなどを考慮すれば、今後さらに景気が潜在成長率を超えて加速してくるとは考えにくい。 今後は四半期ごとのブレはあっても2%前後の緩やかな成長軌道をたどるものと見込まれる。 物価は食料・エネルギー価格の上昇、労働コストの押し上げ圧力などから徐々に上昇率を高めていくものとみられるが、こうした景気展開を前提とすれば、 一時的に加速はみられるとしても、年間を通してみれば、消費者物価上昇率は3%内外の水準におさまろう。FRBが年内に引き締めへ転じる可能性は低いといえよう。
 
(5月9日 経済調査部 山口)