平成11年(1999年)3月31日 NO.4

金属業界の賃金交渉にみるドイツの構造改革の進捗状況

 旧西独金属業界の労使間賃金交渉が、2月18日のバーデン・ヴュルテンベルク州を皮切りに3月初にかけて各州にて相次いで妥結した。ドイツでいう「金属」業界は自動車・機械・電機といった同国をリードする主要製造業を含んでおり、その賃上げ動向は他産業の指標として大きな影響力を持つ。また、ドイツの賃金交渉は企業単位ではなく産業単位で一括して行われるため、その妥結結果は大手企業のみならず、中小企業も含めて経済の隅々まで影響を及ぼす。
 そこで本稿では、今回の賃上げがドイツ経済、とりわけその構造改革にとって持つ意味について考察してみた。
1.高率で妥結した旧西独金属業界の賃金交渉
 
2.高率賃上げの経済への影響
 
3.ドイツの構造改革の行方


1.高率で妥結した旧西独金属業界の賃金交渉
 
 今回の旧西独金属業界の賃金交渉は、「99年1、2月分として一時金350マルク(月175マルク)支給」、「99年3月から2000年2月の賃上げ率3.2%。加えて、年収1%分の一時金を支給(原則99年4月に支給、2002年1月まで先送り可能)」という条件にて妥結した。独大手経済紙ハンデルスブラットによれば、実質的な賃上げ率は4.1%と計算される(注1)。過去の賃上げ率が1.5%(97年4月〜98年3月)ないし2.5%(98年4月〜98年12月)にとどまっており、今回もせいぜい3.3〜3.4%で妥結するとの事前予想が多かっただけに、今回の妥結結果は非常に高いものと言える。
 また、経営者側は賃金決定の柔軟化を図るために「個別企業の業績に連動する一時金」という新しい仕組み(注2)の導入を提案していたが、これも労働組合側に受け入れられず、年収1%分の一時金は従業員全員に一律に支給されることになった。この面でも、今回の妥結内容は期待を裏切ったと言える。
(注1)ちなみに労働組合側は4.2%、経営者側は3.6%と発表した。数値の食い違いは算定方法の違いに基く。
(注2)旧西独化学業界や旧東独建設業界など一部の他業界では既に導入されている。


 今回の賃金交渉がこのように労働組合側に有利な形で妥結した背景としては、
  1. 昨年来、労働組合側が「低い賃上げ率はもはや甘受できない」と明言し、本格的なストライキ入りをちらつかせるなど対決姿勢を強めていた。また、経営者側には、足元で景気が減速しつつある中、ストライキだけは何としても回避したいとの意向が強かった。
  2. 最初に妥結したバーデン・ヴュルテンベルク州はドイツで最も経済成長率の高い地域であり、企業側に比較的余裕があった。しかし、2月18日時点で経営者側が「他の州はバーデン・ヴュルテンベルク州を模倣すべきではない」とコメントしていたにもかかわらず、結局これが目安となり、他地域も全く同条件で妥結せざるを得なくなった。
  3. シュレーダー独首相が労使双方に早期妥結を強く促したり、SPD(社会民主党)元党首のハンス・ヨッヘン・フォーゲルが労使間の調停委員を勤めるなど、高率賃上げを是認するSPDの意向がどちらかと言えば反映し易い環境があった。
という3点が指摘できる。まさに、ドイツ最強の労働組合とされる金属労組「IGメタル」の作戦勝ちであったと言えよう。
 こうした労組勝利の余勢を駆って、2月26日に公務員・運輸・交通労組も「99年1〜3月一時金300マルク、99年4月〜2000年3月賃上げ3.1%」という合意を獲得した(実質的な賃上げ率は、労組側2.5%、使用者側2.35%と発表)。98年1〜12月の賃上げ率が1.5%に過ぎなかっただけに、これも労働者側に比較的有利な結果と言える。
 その後も保険業界が3月20日に「99年1〜3月一時金350マルク、99年4月〜2000年3月賃上げ3.2%」にて妥結(前年の賃上げ率は2.0%)。銀行業界は依然交渉中だが、警告ストライキを行うなど労組側の姿勢は近年になく強硬である。さらに、まもなく交渉を開始する化学業界は労使協調路線で知られてきたが、今年は労組側が金属業界の高率賃上げに触発され、比較的高い賃上げ要求を出す予定である(第1表)

2.高率賃上げの経済への影響
 
(1)悪化の避けられないユニット・レイバー・コスト
 こうした高率の賃上げは、ドイツ経済にどのような影響を及ぼすのであろうか。
 賃上げ率の高低を論じるには、それを労働生産性の上昇率と比較する必要がある。仮に賃上げ率が非常に高くても、それに見合うだけ労働生産性が向上していれば、その賃上げは妥当なものと言えるからである。
 賃金と労働生産性の関係は、ユニット・レイバー・コスト(生産一単位あたりの賃金)という概念を用いると次式のように表すことができる。企業収益に対する賃上げの影響はこのユニット・レイバー・コストに端的に示される。ユニット・レイバー・コストの上昇は即、企業の収益体質悪化を意味するからである。

 ユニット・レイバー・コスト = 1人あたり賃金 ÷ 労働生産性 
 (賃金/生産量)       (賃金/人)  (生産量/人)
∴ ユニット・レイバー・コスト上昇率
   ≒ 1人あたり賃金上昇率 − 労働生産性上昇率

 第1図は、この関係式を利用して、旧西独製造業(注)のユニット・レイバー・コスト上昇率を1人あたり賃金上昇率と労働生産性上昇率に要因分解したものである(労働生産性は、その減少がユニット・レイバー・コストの押し上げ要因であることから、グラフ上では逆符号にてプロットしてある)。これを見ると、ユニット・レイバー・コスト上昇率は、労働生産性上昇率の低下につれて98年初からマイナス幅を縮め、直近98年11月にプラスに転じている。すなわち、賃金面からの企業収益の圧迫が始まっている。
 実は、これと似たパターンは95年半ばにも見られた。一般に景気減速局面では、生産の落ち込みに雇用カットが追い着かないため、まず労働生産性上昇率が低下する。しかし、賃金は次の更改期まで見直せないため、必然的にユニット・レイバー・コストが上昇してしまう。95年のケースでも、年初のマルク高が輸出鈍化をもたらしたが、賃上げ抑制が実現したのはようやく翌年になってからであった。
 98年から足元にかけても、海外景気の減速によって輸出が伸び悩み、それが労働生産性上昇率の低下に繋がってきた。にもかかわらず賃上げは抑制されるどころか、今回の賃金交渉の結果、むしろ大きく上昇する。今後、ユニット・レイバー・コストの更なる上昇はまず避けられないであろう。
(注)統計上の制約からここではデータに製造業全体のものを用いた。金属業界の賃上げ動向は、最終的にかなりの程度製造業全体に波及することが経験的に知られている。

(2)予想される雇用の削減
 こうしたユニット・レイバー・コストの上昇に対して、企業側はどのように対応するであろうか。
 コスト上昇分をそのまま製品価格に転嫁できれば、もちろん企業収益は悪化しない。しかし、グローバリゼーションの進展に伴って低価格の海外製品が容易に国内に流入する上、そもそも景気に勢いのない足元の経済環境においては、スムーズな価格転嫁は難しい。実際、ユニット・レイバー・コストの上昇がインフレに繋がるリスクに最も敏感な欧州中央銀行ですら、最近では、価格転嫁が行われず企業収益が悪化する可能性に注目し始めている。
 価格転嫁が難しいとなれば、企業側は雇用カットを断行して労働生産性を押し上げ、ユニット・レイバー・コストの悪化を食い止める道を選ぶであろう。次式にみるように、労働生産性を向上させるためには生産拡大か雇用者数削減しかないが、足元の景気環境下では前者は早期には望みにくいからである。

労働生産性 = 生産 ÷ 雇用者数
∴ 労働生産性上昇率
    ≒ 生産増加率 − 雇用者数増加率

 第2図はこの関係式に従って、旧西独製造業の労働生産性上昇率、生産増加率、雇用者数増加率をプロットしたものである。これを見ると、戦後最悪の不況を経験した93年以降、労働生産性の落ち込みを防ぐため、企業側が生産の変動にやや遅れつつも大胆な雇用者数の調整を実施してきたことがわかる。したがって今後についても、労働生産性改善のために雇用カットを再開することはドイツ製造業にとってごく当然の対応となろう。
 実際、今回の賃金交渉妥結直後の経営者側の発言も「雇用創出は難しくなった」(ドイツ経営者連盟フント会長)、「金属業界の雇用に甚大なマイナスの影響が生じる」(ドイツ機械設備製造業連盟ロイター会長)と人員削減を示唆していた。また、経済専門週刊誌ヴィルトシャフツヴォッヘに掲載されたIFO経済研究所のアンケート調査(対象はドイツ国内の製造業・小売卸売業・建設業・サービス業、全900社)によれば、「仮に自社の業界の賃金交渉が金属業界と同じ内容で妥結すれば雇用を削減する」と答えた企業が全体の約半数を占めた(第2表)。これは、通常は金属業界よりも低い賃上げ率で妥結する他業界も調査対象に含んでいるため、結果がやや過大に出ている嫌いはあるが、一定の方向性を示すものとみなせよう。 なお同調査では、国内投資を削減するとの回答が3割近くに達した上、海外投資を行っている企業の約半数(全体の16.2%)が同投資を増加するとした。すなわち、投資の海外逃避傾向が鮮明に現れたわけだが、これも国内雇用の減少と表裏をなすと言える。

3.ドイツの構造改革の行方
 
(1)下がるべくして「2歩下がった」ドイツの構造改革
 以上から明らかなように、今回の旧西独金属業界の労使交渉は、景気が鈍化しつつある中で高い賃上げ率で妥結するというタイミングの非常に悪いものであった。これが、少なくとも同業界における雇用の減少に繋がる可能性は相応に高いと思われる。
 失業問題の解決がドイツ最大の政治的・経済的な課題であることは論をまたない。そのためには企業部門が活力を取り戻すための様々な構造改革が必要である。しかしながら、金属労組「IGメタル」が今回示した強硬な対決姿勢は、ドイツの賃金決定システムが依然として下方硬直的であることを象徴的に表した。本件に関しては、ドイツの構造改革がむしろ後戻りした事例として率直に認めざるを得ない。
 もっとも、これをもってドイツ経済の将来を一様に悲観的に捉える必要はないと思われる。むしろ、ドイツは辿るべき道を辿っていると理解する方が正しいのではないだろうか。というのも、コンセンサス社会であるドイツにおいては、如何に国民の支持を確保しつつ構造改革を進めるかが鍵であると感じられるからである。
 わが国では、欧州における構造改革の成功例として80年代の英国のサッチャリズムが引き合いにされることが多いが、これは労組弱体化政策など政府が一方的に改革を推し進めたものであった。ところが、ドイツにおいてこれをそのまま実施しようとすれば、政府は道半ばにして国民の支持を失い、結果的に何も実現しないおそれが大きい。実際、97年に前コール内閣が提出した税制改革案は、当時野党だったSPD(社会民主党)の支持を得られなかったため連邦参議院(ドイツの上院)を通過できず、結局廃案となった。労組を支持母体とするSPDが、96年頃から労組側との対話を無視して各種改革を押し進めたコール政権の法案を、そのままでは支持できなかったからである。この時税制改革が滞ったことに対する国民の不満は、野党SPD側だけでなく、野党との妥協を図れなかった与党側にも向かった。昨年秋の政権交替はこれが遠因となっている。
 今回の高い賃上げ率にしても、IGメタルから見れば、過去2年間も労働生産性向上分に見合わない低い賃上げ率を甘受してきた以上、ごく当然の利益配当を要求したに過ぎない。結局、ドイツにおける構造改革は、ドイツ国民の眼から見て行き過ぎた部分を時折修正してコンセンサスを維持しつつ、「3歩進んで2歩下がる」と着実に進めざるを得ないのである。今回の金属業界の賃金交渉は「2歩下がる」部分が表面化したケースであり、その意味で「辿るべき道を辿っている」と感じられよう。

(3)遂に整った「3歩進む」環境
 そして、ここにきて注目されるのは、「3歩進む」ための環境が遂に整ったとみられることである。 まず、前コール政権が一旦失敗した後に現政権が再着手した「雇用のための連帯」構想は、現在も話し合いが継続されている。同構想では、政府・労組・企業の3者の合意の下に雇用拡大を目指すもので、政府が税金や社会保障負担を引き下げ、労組も低い賃上げ率を甘受する一方、企業がパートタイマーなどで雇用を拡大する、といった内容が想定されている。金属業界の賃金交渉が高率で妥結した2月18日時点では、この構想は経営者団体の反発から空中分解が懸念されたが、翌週25日には協議継続の意志が無事確認された。最終的な3者の合意成立までには時間がかかるかもしれないが、オランダやオーストリア等では既に実現しており、それが同国における失業率低下に繋がっている。
 また、3月19日に成立した現政権の税制改革案は家計向け減税の財源を企業向け増税で賄うものとして経営者団体から不評を買っているが、実はこれとは別途、2000年から企業課税を大減税する構想を政府は検討している。これは法人税(国税)と営業税(地方税)の合計税率を現行の50〜60%から35%まで軽減することを目標としており、大蔵省の専門家委員会は2月末にまず法人税率を40%から25%ないし28%まで引き下げる案を発表した。いずれにせよこれが実現すれば、重税国家と言われてきたドイツの企業課税は一気に先進国で最も軽い部類となる。
 そして、3月11日、現政府の左派的な経済政策推進にあたって中心的役割を果たしてきたラフォンテーヌ蔵相・SPD党首が、蔵相職・党首職そして連邦議会(ドイツの下院)議員からの辞任を突如表明した。同蔵相は家計重視の税制改革案等を掲げ、前コール政権の下でこじれた労組と政府の関係修復に寄与した。しかし、企業の国際競争力改善を軽視するその姿勢が経営者団体や経済専門家から強い批判を浴び、政府の中でも孤立を深めた結果、今回の決断を余儀なくされた模様である。これに伴いシュレーダー首相は新たにSPD党首に就任し、名実ともに現政権をリードすることとなった。同首相は、これまでラフォンテーヌ蔵相の独走を黙認することで与党内外のコンセンサスの確保を図ってきたが、同蔵相が自滅とも言える形で政局から姿を消すため、今後自身のリーダーシップを発揮しうる環境を得たと言える。前述の「雇用のための連帯」構想や2000年からの企業向け大減税案は元々シュレーダー首相が主導してきたものであり、党内左派との調整が残っているとはいえ、その実現可能性は高まったと評価できよう。
 今回の旧西独金属業界の高率賃上げによって、ドイツの構造改革が2歩下がったことは否定できない。しかし、前進のための環境が整った現在、この後退が次に3歩進むための布石となる可能性も意外に大きいのではないかと思われるのである。
 
(3月23日 フランクフルト駐在 矢口)