平成10年(1998年)4月23日 NO.6

アジア危機の影響が顕在化するシンガポール経済


 通貨・金融危機がアジア全域へと波及する中で、シンガポール・ドル相場の下落は比較的小幅にとどまっている。 しかし、危機の長期化・深刻化に伴い、当局は、通貨防衛のため、高金利政策を余儀なくされている。 また、密接な経済関係にある周辺諸国の混乱が、景気の先行きに影を落としている。 さらに、金融改革など中長期的な経済政策への影響もみられる。
 本稿では、顕在化しつつあるアジア危機のシンガポール経済への影響を、 短期的のみならず中長期的観点から検討してみたい。


小幅にとどまった通貨下落
 
景気は減速基調を鮮明に
 
ジレンマに直面する金融改革


小幅にとどまった通貨下落
 
 通貨・金融危機の波及により、シンガポール・ドルも米ドルに対して下落したが、 周辺諸国通貨と比べると、その下落率は低く、97年6月末から98年3月末で、 11%にとどまっている(第1図)
 通貨下落が小幅な背景には、まず、80年代後半以降、経常収支は黒字基調であり、 他のASEAN諸国のように経常赤字ファイナンスに対する懸念がなかったことがあげられる。
 また、通貨政策もこれまでのところ適切であったと評価できる。 78年に為替管理は完全自由化されたが、シンガポール通貨庁は、自国通貨の安定性を確保するため、 シンガポール・ドルと外貨との交換を伴う資本取引の実質的な制限、 いわゆる「シンガポール・ドルの非国際化政策」を採っている(注)。 これが、今回の危機のような国際金融市場の変動をある程度遮断する効果を果たしてきた。 同時に、インフレ抑制など適切なマクロ政策が奏効してきた結果、 実質実効相場は安定的に推移してきており、90年代を通じて、 自国通貨の割高感は生じていない(第1図)。 名目相場上昇基調、低金利の継続の中で、企業が外貨借入をしようという誘因も小さかったとみられる。
 さらに、周辺諸国と比べ、地場銀行の財務内容は健全とみられる。 その背景には、狭い国内金融市場での過当競争を排除するため、 国内金融市場への外銀の参入が制限されていることがある。 一方で、シンガポールで活動する外国銀行の数は、95年3月現在、128行(内、オフショア免許92行)と、 地場銀行12行に対し圧倒的なことから、人材やノウハウの導入を通じて、 金融システムの効率化も進んでいるとみられる。

(注)具体的には、シンガポール・ドルを自由に取り扱うことのできる金融機関の制限、 一定額を超えるシンガポール・ドル建ての非居住者への貸出 あるいは国外で資金を使用する居住者への貸出にはシンガポール通貨庁の事前承認が必要なこと、 外国企業が資本市場からシンガポール・ドルを調達する際の制約など。

景気は減速基調を鮮明に
 
 通貨・金融危機が景気に与える影響は、これまでのところ大きく顕在化していない。 実質GDP成長率は、97年第1四半期を底に、第3四半期には前年比10.1%へと拡大した。 第4四半期は幾分成長テンポを鈍化させたが、 それでも同7.6%を達成した(第2図)
 しかし、今後は、景気は減速基調を鮮明にするとみられる。
 まず第一に、危機の長期化、深刻化に伴い、 通貨防衛のための高金利政策を余儀なくされている(第3図)。 危機発生当初は、影響が軽微だったことから、当局は通貨下落を容認していた。 しかし、97年10月に香港ドル投機、12月には韓国ウォン、インドネシア・ルピア相場急落と危機が広がる中、 当局は、為替相場政策に対するスタンスを、通貨防衛へと変化させてきた。
 第二に、資産価格下落の影響も無視できない。株価は、97年1年間で3割強下落した。 不動産価格は、93年以降上昇サイクルにあったが、96年5月の不動産規制導入の効果に加え、 景気後退に伴う需要減から、足元、下落基調にある(第4図)。 今後、逆資産効果から、消費や投資の伸び鈍化が予想される。
 第三に、こうした国内要因に加え、周辺諸国の混乱が、 景気の押し下げ要因として顕在化してくるとみられる。
 まず、企業や金融機関のバランス・シート悪化が懸念される。 特に、金融機関の周辺諸国向け貸出の不良債権化が大きな懸念材料である。 地場銀行大手6行の97年11月末時点のASEAN諸国向け貸出は、 総資産の16.5%(内、マレーシア向け12.4%、インドネシア向け2.0%、タイ向け1.8%)と公表されており、 それに対する貸倒引当金の積み増しも進んでいる模様である。 しかし、インドネシアとの経済密接度を勘案すれば、同国向け貸出の比率はもっと高いのでは、 とみる向きもある。
 また、貿易面では、ASEAN域内向け輸出が総輸出の約4分の1を占めるため、 当面、輸出の回復が期待できない。 名目GDPに対する輸出の比率が130%を超えるシンガポールでは、 輸出の不振が景気全体に及ぼす影響は小さくない。
 さらに、中継貿易の減少による運輸収支黒字減少と、 周辺諸国からの旅行者減少による旅行収支黒字の 減少も避けられないだろう(第5図)。 これらが外需を通じて景気を押し下げるとみられる。

ジレンマに直面する金融改革
 
 アジア危機は、こうした短期的な景気への影響だけでなく、 政府の中長期的な経済政策にも影響を及ぼす可能性がある。
 シンガポールの1人当たりGDPは、96年に3万米ドルを超えており、日本に迫る勢いである。 こうした中、成長を維持するためには、産業の高度化を引き続き図っていく必要がある。 政府は、半導体、石油化学分野を中心に製造業の高付加価値化を進める一方、 ASEAN地域の金融・物流・研究開発拠点としての環境整備に努めている。 特に、金融サービス産業への期待が強い。
 しかし、諸外国に目を転じると、規制緩和と技術革新によって、金融業界は大きく変化し、 国際市場間の競争が激しくなってきている。 日本でもビッグ・バンが本格的に始動しだした。 また、香港が返還後も国際金融センターとして期待されていることが、政府の危機感を高めている。
 こうした中、21世紀に向けてシンガポールが国際金融センターであり続けるため、 97年8月にはリー・シェンロン副首相を議長にした金融部門見直し委員会が発足し、 金融改革の検討が本格化している。
 改革により、資本市場、デリバティブ市場の一層の活性化が期待されている。 外国為替市場は取扱高で世界第4位(95/4)、オフショア市場は香港の約7割の規模 (97/9、5,626億米ドル)と厚みがあるが、資本市場にはまだ拡大の余地があるとみられるからだ。 金融先物市場は急成長しているが、ユーロ・ドル金利、ユーロ・円金利、 日経平均の3商品で全体出来高の約9割を占め、商品の多様化が課題となっている。
 市場の活性化には、これまでの規制と保護を中心とした金融行政の基本原則を変更する必要がある。 リー副首相も、@規制行政から監督行政への移行、A投資家の自己責任原則の確立、B情報開示の推進、 などを改革の柱とすることを表明している。
 同時に、シンガポール・ドルと外貨との交換を伴う資本取引を制限する 「シンガポール・ドルの非国際化政策」の修正が徐々に進められている。 シンガポール・ドルでの運用・調達手段の制約は、外資系企業誘致を進める上での障害となっているからだ。 また、進出企業のニーズが高いアジア通貨建て商品を拡大する上でも、 シンガポール・ドル自身の利便性を高めることは避けて通れない。 ASEAN地域における金融・物流・研究開発の拠点としてハブ機能強化を進める同国にとって、 こうした企業のニーズに応える必要があるとの認識が政府内でも高まっている。
 しかし、シンガポール・ドルの国際化は諸刃の剣でもある。 今回のアジア危機の背景には、多くの国で、金融システムが脆弱な段階で、 資本移動の自由化を急速に進めたことがある。 その結果、資金流入による景気過熱や不動産ブームの行き過ぎを、 金融政策によって未然に防ぐことが出来なかった。 シンガポールの金融システムは比較的健全とはいえ、経済規模が小さいことから、 シンガポール・ドルの国際化に伴う内外金融取引の自由化は、 国際金融市場の変動に対する国内経済の脆弱性を高める可能性がある。 それは、国際金融センターとしての信認を低めることにもなりかねない。 したがって、シンガポール・ドルの国際化は、中長期的には望ましいが、 当面、慎重に進めていかざるを得ないだろう。
 
(4.15 中村)