平成10年(1998年)4月6日 NO.5

アルゼンチンのカレンシーボード制


 97年のアジア危機発生をふまえ、途上国における適切な為替相場制度のあり方が問い直されている。 本稿では、固定相場制度の中でも、特に厳格に規則に根ざした制度であるカレンシーボード制度を 採用しているアルゼンチンの事例を取り上げ、その制度的枠組み、採用の動機と定着の要因についてみてみたい。


制度的枠組み
 
制度導入の動機と定着の要因
 
後戻りは難しいアルゼンチンの通貨政策


制度的枠組み
 
(1)通貨発券裏付けのしくみ
 アルゼンチンの通貨制度は、91年3月に成立した「通貨兌換法」に基づき、 いわゆるカレンシーボード制を採用している。同制度では、通貨発券主体 (=カレンシーボード、アルゼンチンでは中銀)が、対外準備資産に裏付けられた 通貨発券を行うことを前提として、固定相場(アルゼンチンでは1米ドル=1ペソ) での内外通貨の交換性が制度的に保証される。簡略化すると、対外準備資産 (外貨建)÷固定為替相場≧ベースマネー(国内通貨建)となることが義務づけられる制度である。
 しかし、カレンシーボードの対外準備資産およびそれに裏付けられるべき負債の定義は 国により異なる。アルゼンチンの定義では、中銀対外準備資産には、流動準備資産 (金、外貨現・預金)に加えて、全体の1/3の額を上限としてドル建国債保有額(市場価格評価) を含めることを認めている。一方、中銀対外準備資産に裏付けられる中銀負債は、流通通貨額と 対市中金融機関ネットレポポジション(中銀の資金吸収額−資金放出額)の合計と 定義される(第1表)

(2)金融システム安定化のための諸政策
 カレンシーボード制の弱点のひとつは、中銀の「最終貸し手」としての機能が制限される点である。 実際に94年末のメキシコ通貨危機当時、アルゼンチンではメキシコ債券投資に失敗した小銀行の 流動性危機を十分に支援できず、危機感が金融システム全体へ波及した。このため94年11月〜95年4月 に国内預金総額(月中平均)は17.5%減少し、銀行数も94年12月の168行から96年12月には120行まで整理された。
 元来、カレンシーボードは銀行預金など広義のマネーサプライの兌換を保証するものではない。 これに加えて中銀の「最終貸し手」機能が制限されることから、各金融機関には十分な流動性準備が要請される。 アルゼンチンでは、メキシコ危機の教訓を踏まえ、95年8月に従来の対中銀強制準備預金制度を廃止し、 新たに最低流動性準備制度(Minimum Liquidity Requirements)が導入されている。
 最低流動性準備制度では、金融機関のすべての負債に対して、国内外あるいはその形態、通貨に関係なく、 残存期間に応じた一律の準備率が課される(注1)。これは、 旧制度では変動率が大きいと想定された要求払預金に最高準備率を課していたが、メキシコ危機波及による 預金減少局面では、定期預金の減少率の方が高かったという経験を踏まえたものである(第1図)
 準備金の積立形態としては、対中銀レポ・銀行流動性債(中銀債、現在は残高ゼロ)購入の他に、 全積立必要額の70%を上限として指定海外資産(OECD諸国の国債や一定以上の格付の海外民間債など) による運用も許可されている。
 こうした準備金積立形態の多様化の利点は、各金融機関が準備金の運用収益を自己管理出来る上、 きめ細かいALM管理が可能となる点にある。また、準備金を流動性の高い海外資産として保有することで、 国内金融システムの流動性逼迫時においても、海外市場で容易に流動化することができる。これら海外資産は、 特定の欧州銀行のニューヨーク支店への預託義務があり、預託残高は97年11月には72億ドルに達した(第1表)
 この他にも、メキシコ危機後には、民間預金保険機構の設立、中銀の1金融機関に対する 支援限度額の引き上げなど、金融危機への対応策が整えられた。さらに、96年8月以降、 中銀は海外主要民間銀行との間で米ドル建国債を担保とするスタンドバイクレジット契約 (総額74億ドル、預金総額の約1割)を締結し、これを原資とした国内銀行セクターへの 緊急時の流動性支援機能を充実させている。
 これらに加えて、アルゼンチンでは金融部門の徹底した外国資本への開放政策を進めており、 現在では国内総預金額の約45%が外資系銀行もしくは外資が経営参加する銀行の手にあると 推計される。こうした国内金融システムにおける外資系銀行プレゼンスの高まりは、 金融システムの透明性の向上を促すとともに、安定性に対する信任維持に奏効しているとみられる。

 注1:但し、貿易ファイナンス、格付A以上の外資系銀行の在アルゼンチン支店-本店・ 在他国支店間のクレジットライン等は適用外。98年2月現在の準備率は、残存期間89日以内 (要求払い預金を含む)は20%、90〜179日は15%、180〜365日は10%となっている。

制度導入の動機と定着の要因
 
(1)カレンシーボード制導入の動機
 ここでアルゼンチンがカレンシーボード制を導入した目的と効果を振り返りたい。
 カレンシーボード制採用以前のアルゼンチンでは、通貨発行による財政赤字ファイナンスが恒常化し、 民間部門の政策当局・自国通貨に対する信任は極度に低下していた。 このため89、90年の消費者物価年平均上昇率は3087%、2314%という高インフレとなっていた。 かかる状況下では、カレンシーボードの採用によって、いっさいの政策的裁量余地を 排除することが、自国通貨への信任を取り戻す唯一の手段であったといえる。 実際にカレンシーボード制はめざましい効果をあげ、物価は劇的に収束し、国際信任回復による 外資流入増加にも支えられ、経済高成長が実現した(第2図)

(2)制度定着を支えた経済のドル化
 アルゼンチンの名目GDPは2800億ドル(95年)、貿易依存度(輸出額/GDP)は7.5%(同)であり、 従来より固定為替相場制採用のメリットが相対的に高いとされてきた「経済開放度の高い小国」 の範疇には当てはまらない。このような国でカレンシーボードが定着した要因は、導入以前の 国内通貨建貨幣流通量の減少とドル化の進行にあったとみられる。
 まず、89〜90年の高インフレを経て、ペソに対する需要が減少し、GDP比でみた貨幣流通量が 減少傾向となっていた。また、90年のBONEXプラン(注2)により、広義のマネーサプライも 極度に縮小した(第3図)。このように、 対外準備資産による裏付けという枠をはめられることになる国内貨幣流通量規模が小さかったことが、 導入初期のカレンシーボードの安定的維持に対する信任を支えたとみられる。
 また、91年のカレンシーボード導入に伴い、米ドル使用に関するほぼすべての規制が撤廃され、 アルゼンチンはほぼ完全な2重通貨制度となった。導入後のインフレ収束と経済活性化に伴って 貨幣需要が回復し、貨幣流通量増加現象がみられたが、この貨幣流通量増加はドル建金融システムの 発展とともに、経済のさらなるドル化の進行を促した (第1図第3図)。 この結果、97年10月にはドル建資産・負債は、全銀行預金額の53%(352億ドル)、 全銀行貸出の67%(446億ドル)を占めるに至っている。
 こうしたドル建金融システムの発達は、結果的にペソ信任の低下時の逃避資金の受け皿となり、 実体経済に与える影響を緩和している。中銀が民間に売却したドルは、そのすべてが 国外流出することなく、一部が国内金融システム内のドル建資産として留まるため、 金融機関へのダメージや民間投資・消費への影響を限定的なものとできるからだ。実際に、 国内金融システムへの信任回復もあいまって、97年10月の香港株価暴落による世界的な金融・ 資本市場の混乱時には、ペソ預金からドル預金へのシフトの動きはあったが、 メキシコ危機後のような預金の海外流出はみられなかった(第1図)

 注2:ドル投機およびインフレ抑制のための過剰流動性吸収の目的で、  国内通貨建定期預金を米ドル建長期国債(BONEX)に強制転換させた。これにより、通貨・ 政府への信任はさらに低下し、ドルへの逃避に拍車がかかった。

後戻りは難しいアルゼンチンの通貨政策
 
 以上のとおり、アルゼンチンではカレンシーボードの採用と平行して、金融システムの健全化、 海外銀行とのスタンドバイクレジット契約による流動性支援体制の整備、経済のドル化の 推進によって、固定相場制維持のコスト軽減につとめてきたと評価されよう。
 もちろん、今後も米ドル為替相場を固定することの経済的合理性には疑問が残る。 なぜなら、80年代の欧州・旧ソ連への農産物輸出に代わり、今後のアルゼンチンの輸出の 伸びを支えると期待されるのが、ブラジルをはじめとするメルコスール諸国への完成工業製品輸出 であるからだ。現在のところ、主要貿易相手国であるブラジルがドルペッグに近い通貨政策を採っており、 物価上昇率がアルゼンチンよりも高いため、対ブラジル通貨でのペソ実質為替相場上昇の問題は 顕在化していない(第4図)。しかし、今後の ブラジル通貨制度の動向によっては、ペソ高がアルゼンチン製造業セクターの対外競争力を阻害し、 対外収支の安定が損なわれる可能性は高まろう。
 しかし、それでもなお、アルゼンチンが現行の為替相場制度の変更や対ドル為替相場水準の変更を 行う可能性は低いとみられている。なぜなら、歴史的な自国通貨への信任の低さや、2重通貨体制の 進展のもとで、米ドルは既に資産保全、計算単位としての通貨機能面ではペソを凌駕しており、 ペソ名目為替相場の切り下げはペソ建物価を高進させるだけで、実質的な切り下げ効果を実現することは 難しいと考えられるからだ。この場合、対外競争力の強化に向けては、製造業セクターの高度化や 労働生産性の向上など、為替相場以外の面での改善の必要性が高まることとなろう。
(3月18日 杉崎)