平成9年(1997年)10月23日 NO.17

東南アジア通貨危機下の中国人民元相場

 97年7月以降のタイ・バーツの大幅下落は、すぐさま周辺諸国へも波及し、 その他のASEAN通貨も大幅に下落している。これに対して、人民元相場は 極めて安定的に推移している(第1図)。以下では、この背景を探ることで、 今後の人民元相場を展望してみたい。

人民元相場安定の背景
 
ASEAN通貨危機の中国の輸出への影響
 
人民元相場の展望


人民元相場安定の背景
 
 (1)黒字基調にある経常収支

 ASEAN通貨の急落にもかかわらず、人民元相場が安定している背景には、 中国は貿易黒字を反映して経常収支が黒字基調であることがある(第1表)。 ASEAN各国の経常収支は赤字基調にあり、とくにタイ、マレーシアは90年 代には赤字幅が大きく拡大したのに対して、中国は90年代に入って黒字基調に 転じた(第2表)。

 中国が安定的に経常黒字を計上してきた背景には、まず第一に、改革・開放 政策への転換以来、度重なる対ドル相場の切下げで輸出競争力を維持してきた ことがある。85年以降の長期でみると、人民元の対ドル相場はASEAN通貨 に比べ、大幅に切下がっている(注、第2図)。94年初の公定相場と市場相場 の一本化以降は実需面からの人民元買いを反映した緩やかな人民元高基調を辿 っているが、中央銀行のドル買い人民元売り介入によって緩やかな上昇にとど まってきた。
(注)中国では、86年終わり頃からの外為市場の設立により市場の需給によって 決定される市場相場と政府が決定する公定相場が併存するようになった。そこ で、第2図第3図の87〜93年の人民元相場にはIMFレポートの推計による 公定相場と市場相場の取引量による加重平均相場を使用している。

 国際的な価格競争力をより多角的にみるために、実質実効相場をみてみよう。 第3図は、主要貿易相手先通貨15に対する為替相場を、内外の消費者物価上昇 率格差を勘案して調整し、貿易シェアで加重幾何平均して試算した実質実効相 場を示している。実質実効相場ベースでみても、対ドル切下げを中心とする 為替相場政策を反映して、93年前半まで人民元はASEAN通貨に比べ相当割 安になり、中国製品の価格競争力は強化されていった。93年後半以降、人民元 の実質実効相場は、中国のインフレを反映して上昇したが、それでも、総じて みれば割安な状態が続いてきた。

 なお、最近のASEAN通貨危機は94年の人民元の対ドル相場33%切下げに 伴うASEAN各国の輸出競争力の低下によるものであるとする論調があるが、 これは的確ではない。94年の人民元の切下げ幅は実態的には小幅であった。

 確かに94年に公定相場が市場相場に一本化されるに伴い、公定相場は33% 切下げられて1ドル8.7元となった。しかし、取引の約8割を占める市場実勢 相場はすでに1ドル8.7元であり、取引の約2割を占めるに過ぎない公定相場が 33%切下がったところで、94年における実態的な切下げ幅は6〜7%に過ぎな かったのである。

 黒字の背景として、第二に、中国には80年代から香港、90年代からは台湾の 労働集約型企業が多く移転してきた結果、中国は低付加価値の消費財の一大生 産拠点として供給力と品質を高めたこともある。

 さらに、第三には、消費財に関わる高率関税、様々な非関税障壁などが輸入 を抑制していることもある。

(2)巨額の直接投資流入

 人民元相場の安定には、92年以降、世界的な対中投資ブームによりASEAN 各国を大きく上回る巨額の直接投資が流入していることも寄与している (第3表)。この背景には、まず、92年に外国投資が可能な地域および業種が大幅 に拡大されたことがある。さらに、中国の高度成長により、12億人の人口を有す る巨大市場の魅力が認識されたことから、中国内市場への参入を目的とした進出 が増えたことも大きい。

ASEAN通貨危機の中国の輸出への影響
 
 ASEAN通貨が大幅下落したことによるASEAN製品の価格競争力の 強化が、どの程度、中国の輸出に影響を与えるかは現段階では明らかではない。 しかし、ASEAN製品と中国製品の競合の度合いを検証することによって 多少なりとも推測の手がかりが得られよう。こうした状況下、この先、単に ”ビッグバン”を実行するだけで、家計のリスク・テイク能力をフルに引き出す ことは、本当に可能なのか。

 まず、生産コスト面からみると、第4表のとおり、とくにタイ、インドネシア では安価な賃金・工場賃貸料を背景に労働集約型産業に優位性をもっていると みられることから、中国との競合がおこり得る。

 次に、第5表から、輸出構造をみると、マレーシア、タイでは輸出の中心が 電器・機械機器にシフトしているとはいえ、ASEAN3カ国合計では原料別 製品、雑製品の輸出額も無視できない水準にあることから、中国との競合の 余地を残していると考えられる。

 さらに、電気機器についてみてみると、対米輸出の例から、電子部品、家電、 通信機器、コンピューターおよび周辺機器などで、マレーシアを中心に ASEANと中国とで競合しかねない(第6表)。

 ただし、中国企業は過大な供給能力を抱えているとみられており、生産量を 確保するために、採算を度外視した低価格で輸出ドライブをかけることで、 ASEAN通貨下落の影響を相殺してしまう可能性には留意しておく必要がある。

人民元相場の展望
 
 ASEAN通貨の切下げ後も、人民元相場は好調な輸出と外資流入により 上昇基調にあり、短期的に下落に転じる公算は低い。この背景には、第一に、 今後、ASEAN通貨の下落の影響が顕在化してくるとみられるが、人民元 切下げを要するほど輸出が悪化するには時間がかかることがある。これは、 本年の貿易黒字が1〜9月ですでに306億ドルと巨額にのぼることでもわかる ように、中国の輸出競争力は非常に強かったためである。

 第二に、中国当局は香港返還後間もない時期であるため、香港ドルの米ドル ・ペッグ制への影響を考慮して、人民元相場の安定を図るとみられることが ある。今回のASEAN通貨危機に際しても、一時的ながら香港ドルにも売り 圧力がかかったが、人民元相場の引下げとなれば、中国・香港の緊密な政治・ 経済関係を反映して、香港ドルにさらに強い売り圧力がかかりかねない。その 結果、ペッグ制の見直しを余儀なくされる可能性がある。

 ただし、中期的には人民元相場は下落に向かう可能性がある。現行の相場 水準は、経常・資本取引に大きく制限を加えたうえで成立しているものだから である。今後、WTO加盟を念頭に置いての輸入規制緩和の動きは加速しようし、 94年に禁止された中国企業の外貨保有が10月15日から制限付きで解禁されると いう動きもある。輸入ならびに外貨建て資産取得のために外貨需要が表面化 すれば、輸出や対内直接投資による人民元需要を上回り得る。過去の例をみて も、93年央には景気過熱に伴う輸入急増、インフレ期待による外貨保有ニーズ の高まり、などを背景に、一時期、市場相場が1ドル=10元を割込むまでに急落 しており、外貨需要が顕在化した際の人民元下落圧力は軽視できない。
 
(10月23日 萩原)